スナフキンの手紙

直島・家プロジェクト

直島文化村は、165haの敷地内にホテル・美術館の複合施設と広大なキャンプ場を擁する、日本でも有数のリゾートである。一般的な意味での知名度はさほど高くないが、建築や美術に興味を持つ人々の間では、世界的にも有名であるらしい。

というのも、まず「滞在型の現代美術館」というコンセプトが面白い。「直島コンテンポラリアートミュージアム」はホテルと一体を成しており、例えば夕食の後のひとときを美術鑑賞にあてることができる。また、建屋は安藤忠雄氏の設計であり、それ自体も観賞の対象として位置づけられている。

けれども、それだけであれば、私がここを訪れることは無かったと思う。「リゾート」から金網越しに外を見るとき、私は自分が侵入者であることを実感する。結局のところ、金網の内側に入ることができるのは財布の中身だけなのだ。

だが直島文化村は、「家プロジェクト」に代表される地域密着型の活動によって、地元の社会に溶け込みつつある。集落の民家を改修し、その特定の場所・建物という文脈において制作された美術作品と共にそれを保存するという「家プロジェクト」は、人々の中に「文化の島」という誇りを与えた。

直島を「文化の島」たらしめたのは、ホテルでも美術館でもない。集落の町並みの美しさを、島の人々が再発見したことに意味があった。そのきっかけとなった「家プロジェクト」は、現代における美術とは何かを教えてくれているように思える。

(2003/3/4)

大塚国際美術館という「フェイク」

大塚国際美術館は、いわばフェイクの殿堂である。展示作品は全て、陶板の上に焼き付けられた複製に過ぎない。ここでは、延べ床面積29,000m2以上にも及ぶ広大な美術館を、1,000点以上の複製絵画が埋め尽くしている。オリジナルは1枚も存在しない。

これはそもそも美術館と呼ばれるべきなのか。そのような疑問すら湧いてくる。美術作品においては、オリジナルと複製の間には本質的な違い ―端的に言えば、真作と贋作― が存在する。ここに集められた1,000枚のコピーを全て子細に鑑賞したところで、結局のところ、それは「美術の教科書で見た」のと大差ない間接的な経験に過ぎないのだ、ということもできる。

しかし、実際に訪れてみた今、この美術館には観るべきものがあると断言することができる。それは第一に独特の展示方法による。第二に、その圧倒的な物量による。

第一。大塚美術館では、「環境展示」といわれる展示手法が取り入れられている。オリジナルの絵画が存在する場所を模したセットの中に、原寸大の複製絵画を展示するのである。例えば、ミケランジェロの最後の審判はシスティーナ礼拝堂を模した広大なホールに、石室の壁画は石室を摸した小部屋に、それぞれのスケールで展示されている。

これらの展示空間はただ場所の雰囲気を表すだけの書き割りのようなもので、自身の贋作性を強く主張している(石はどこから見てもFRP製だし、本来であれば無数の壁画で覆われているはずのシスティーナ礼拝堂には2つの作品しか展示されていない)。しかしその不完全さが、「実物を見てみたい」というモチベーションを生起させる。もし絵画それだけが切り取られて展示されていたとしたら、鑑賞は「美術の教科書で見た」ことの確認作業に終始するだろう。

第二に、物量について。環境展示によらない作品は、その歴史的位置づけによって分類され、系統的に配置されている。これらを眺めて歩くだけで、ヨーロッパにおける美術史のおおまかな流れが直感的に理解できるようになっている。例えば、10枚以上の「受胎告知」を繰り返し見せられれば、それが当時のヨーロッパ人にとっていかに重要な関心事であったか、厭でも思い知らされる。

全てがフェイクであるが、そこから得られるものがあるのだとすれば、やはり価値はある。大塚美術館は、美術館の新しい在り方を示唆しているといえるだろう。

(2003/2/1)

現代美術への視点 連続と侵犯

そのような題名の展覧会が、大阪万博公園内の国立国際美術館で開かれている(2003/3/23まで)。わりと気軽に入れる美術館なので、近くの人は是非一度。

一般的に現代美術というものは、抽象的でなんか爆発していて、凡人には理解不能なものと見なされる傾向がある(と思う)。それは一面では正しい。例えばこの美術館からは「太陽の塔」がよく見えるが、それはまあ、第一印象としては全く意味不明の物体である。何より、それは調和的均衡を目指してはいない。つまり、たぶん美しくない。

しかし太陽の塔は、大阪万博=高度経済成長のシンボルとして、いまだに存在感を誇示している。では、このガラクタ寸前の巨大オブジェを美術たらしめているものは、一体何なのだろうか。

それは対話だと思う。現代においては、作品の意味は鑑賞者との関係の中でのみ決定される。普遍的な真理など何も存在しないから、作品はただ問い掛けることしかできない。けれども、その問いが有効であったとしたら、鑑賞者にさまざまな発見を促すことができるはずだ。現代美術の作品が一見理解不能であるのは、その意味で必然である。

というわけで強引にまとめると、要は「わかんない」ことを楽しめばいいのだと思う。良くできた作品は「わからない」という知的刺激を美味しく食べさせてくれる。それに、そのような「わからない」のストックが、何かを考えるときの足がかりになったりするものだ。

(2003/1/28)

スナフキンの手紙

未だにInterCommunicationなんかを読んでいるせいで、東浩紀のデリダ論に触れる機会があった。

東によると、冷戦の終結以来、世界はより高度にポストモダン化した。ここでポストモダンというのは、「大きな物語の喪失」のことである。「モダン」な社会では、人は社会の提示するイデオロギー(例えば、進歩的歴史観とか、共産蜍`とか経済成長とか)に抱かれて生きることができた。しかし現在、それらの物語は幻想であると見なされている。

そして、オタクやコギャルを含むサブカルチャーの先鋭化は、ポストモダン化の進行による当然の帰結である。全ての人々に共有される言語が存在しない以上、共同体は無数に分裂し、互いのコミュニケーションは困難になる。

そのような世界で何かを語るということは、「郵便的不安」の中にあるのだと、東は指摘する。共同体の外部に対するメッセージは、誰かに届くかもしれないし、届かないかもしれない。そもそも、それは誰に宛てられたものか。誰に語られるべきなのか。

まあ、そんなことを読んで、俺様は「スナフキンの手紙」を思い出した。鴻上尚史が「手紙」という言葉を使った気分と、東が「郵便的」と形容した不安とは、同根のものと思える。今や人々の間を貫く言語は存在せず、むしろメッセージ交換の事実そのものがコミュニケーションを支えているのだ。

ただ、鴻上は手紙という言葉に到達への希望を込め、東はむしろ到達の不可能性を強調した。それは確かに1994年と、1999年との状況の違いをほぼ正確に反映しているのではないかと思う。その辺をふまえた上で、ファントム・ペインはどうだったのか、なんてことも、そのうち考えてみようと思う。

(2003/01/26)